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そもそも築地って?築地市場の歴史を紐解く

「築地」その名を聞いたことはあるけれど・・・築地ってどんな場所なのでしょう。

こんにちは、魚河岸ウォーカー編集部のシノブです。
今回は、築地の歴史について調査してみました!

そもそも築地っていつからはじまったの?

水産物の年間取扱量44万トン。金額にしておよそ4400億円もの取引きがある世界最大級の魚市場「築地市場」。その取引規模の大きさから別名“日本の台所”とも言われています。その歴史を紐解くと、始まりは徳川家康の時代、江戸・日本橋につくられた魚河岸にさかのぼります。

この魚河岸は、1590(天正18)年に家康が江戸入りの際に、大阪の佃村から森孫右衛門ら約30人の漁師を随伴したことに始まります。家康は漁師たちに「網引御免証文」を与え、魚を幕府へ収めさせました。一方で、漁師たちは獲れた魚の残りを自由に売る権利を得て、日本橋のたもとで販売するようになり、これが魚河岸(魚市場)と呼ばれ、発展していったそうです。

橋のたもとに魚を扱う店が軒を連ね、その魚を求めて人々が行き交うようになり、やがてこの場所は“日本橋魚河岸”と呼ばれ、遠隔地から船で活魚が搬送され、活魚問屋が興こっていったのだとか。

 

▲江戸時代の魚河岸(引用:ザ・築地市場

 

 

このような流れが定説とされていますが、そうではない見方もあるようです。日本橋魚河岸は江戸幕府のお墨付きによって始まったのではなく、自然派生的にできた交易の場を、幕府は追認するかたちで利用したのではないかと。

その証拠に、大政奉還後に、日本橋魚河岸を行政の監視下に置こうとしたところ、強硬な反対運動が起こり、膠着状態は大正時代に入っても続いたという記録が残っています。その反対運動に終止符を打ったのが1923(大正12)年9月1日の関東大震災でした。 

 

震災の復興から生まれた“日本の台所”

繁盛の一途を突き進み、商人で賑わい全盛を極めた日本橋魚河岸でしたが、1923年に関東大震災で消失。芝浦に臨時魚市場が開設されたのち、築地にある海軍技術研究所の土地へ移転することが決まりました。それまで日本橋魚河岸で商いをしていた人たちは店を失い、誰もが移転を受け入れざるを得ない状況だったそうです。

そして1935(昭和10)年に公設公営の「東京市中央卸売市場」(築地市場)が開場。商売人たちは、築地市場で行政が定めたルールに沿って営業をすることになりました。

 

▲江戸の日本橋魚河岸(引用:ザ・築地市場

 

 

築地市場の広さは、東京ドーム5つ分の約23ヘクタール。その敷地内に7社の「卸売業」を筆頭に、600近くの「仲卸業」、約300業者の「売買参加者」、約150の関連事業者(運送業、冷蔵庫業、買荷保管業、用品販売業など)がひしめき合っています。

 

▲活気溢れる早朝の築地市場

 

 

世界から築地へ、築地から全国へ

築地には、日々、日本全国の漁港から新鮮な魚が運び込まれ、また世界の漁場からも空輸や船便で運送されてきます。日本各地、そして世界中から集まった最高のものが、卸売、仲卸、売買参加者、関連事業者、それぞれのプロたちの手によって繋がれ、我々の口へと運ばれてきます。

 

▲場内を運ばれるマグロ

 

 

築地には鮮魚だけでも600種類を超えるほどの種類の水産物が入荷し、マグロやマアジなどの魚、イカ類、エビ類、真鯛、あなごなどの活魚、貝類、マグロやエビなどの冷凍品、その他、鮎やうなぎなどの淡水魚、海藻、塩鮭やしらす、かまぼこなどの加工品など、この種類数は世界最大の規模です。

 

▲競りの風景

 

 

夕方ごろから魚をのせたトラックが市場に到着しはじめると、卸売業者が魚を受け取り、セリ場に並べ、仲卸業者などがセリにそなえて魚の下見をします。そして早朝5時ごろから活魚、マグロのセリが始まり、6時30頃には場内の仲卸業者の店にセリ落とした魚が並び始めます。

その頃から買い出し人が仲卸の店を訪れはじめ、8時頃がピークを迎え売り場は大変な賑わいを見せます。その賑わいも11時頃には落ち着き、仲卸は店じまいの時間、卸売業者は各地の漁港と連絡をとるなどして、次の日の準備をはじめます。

江戸時代から行われてきた、この魚のプロ同士のやりとりが、日本独自の魚食文化を生み出し、ハイクオリティな食文化を支えてきたといっても過言ではありません。旨い魚には、旨いだけのワケがあったのです。私たちの食卓に並ぶ魚達は、築地市場に集う人々が手から手へと繋いだ“海と人の恵み”と言えるかもしれません。

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編集者/ライター。東京・下町生まれ。旅と町歩きとカメラが趣味。人生最後の晩餐はお寿司と決めている魚好き。